鈴木さんちの球日記

撞球愚痴日記。2006年から書き続けているので、昔と今とでは持論が変わっていることが多いです。1プレイヤーの成長記として、生暖かい目で見守ってください。

1人転がし好き

 

1788文字

 

1本目

 

約1ヶ月間ブレイクの底上げが出来ていたわけですが、意識していたのがテイクバックでした。

 

上腕を上手く使えていないとずっと感じていたので、上腕を使いやすくするためのテイクバックを考え、編み出し、それが上手くハマっていた1ヶ月間でした。

 

編み出した当日は「上腕を上手く使う」と意識していたわけですが、そうしましたら引き上げる形のテイクバックになりました。

 

この、言葉にしてしまうと「引き上げ」の一言で終わってしまうタイプのテイクバック。引き上げって言ってもですよ。引き上げ方が何百通りあるんだって話なんですよね。

 

引き上げれば良いってもんじゃなくて、引き上げ方がある。何百通りも引き上げ方がある中で、正解はほんの数通り程度なんだと思います。

 

で、初日は「上腕を上手く使えるように引き上げる」くらいにしか言語化できなかった。これは不安です。次回以降に再現できる気がしない。

 

私がやるべきは

 

  • イメージがあるうちに反復練習をして、言語化する必要がないくらい体に染み込ませる(感覚を鍛える)
  • 明確に言語化する(理論を構築する)

 

このどちらか。どちらにしても練習量が必要で、相撞き続きだったものだからそれをやっている時間がなかったのが崩壊の原因になったと考えております。



「上腕を上手く使えるように引き上げる」って、これはほぼ何も言語化出来ていないに等しいですよねw メモの必要性すら感じない。実際メモしませんでした。

 

崩壊後に立て直しのための練習をしながら、「知識のある人だったら、初日からもっと上手く言語化できるんだろうなぁ」と思っていました。

 

引き上げるにあたって、どこの筋肉や関節をどの程度使うのか、具体的なことをメモしておければ再現率は高まるはず。人体やスポーツの知識がある人なら初日からでももっとまともな言語化ができるんじゃないでしょうか。私は知識がなさすぎる。



この間きっけー氏に「頭の悪い理論派が最悪」ってな話をしました。

 

理論派と感覚派にざっくり分けた場合、感覚が優れた感覚派は良いし、頭の良い理論派も良い。どちらも結果を出せる。

 

が、頭の悪い理論派と感覚の鈍い感覚派は駄目です。何も結果を出せない。

 

私には理論でアプローチすることと感覚でアプローチすることの両方がありますが、「言語化」だとか「メモの仕方」だとかは理論の方。それをするにあたっての私はまさに「頭の悪い理論派」になってしまっておる。

 

頭が悪くても量を撞ければ量でゴリ押しにしていけるんですけど、量が撞けない今となってはもっと賢く練習せねばならぬ、、、、



2本目

 

私は相撞きも好きではありますが、1人練習の方が好きです。

 

上達を求めるのも「勝負に勝つため」ではなく「自分が撞きたい球を高い精度で撞けるようになりたいから」ですから、相手がいないほうが良い。「自分好みの球を誰かに見せつけたい」ではなく「自分好みの球を撞いて自分を納得させたい」なので、本当に1人で完結できるのです。

 

また、この間思ったのは「嗜好がぶつかり合っとる」ということでした。

 

14−1でいかにしてランを出すかを1人でのんびり考えているのが結構好きだと以前に書きましたけども、ある日には「1人練習中ならば、9ボールでいかにガチガチのセーフティーをするかを考えるのも好きなようだ」と気づきました。セーフティー嫌いの私なはずなのに。

 

1人練習であればマイペースに撞ける。いくら時間をかけてもいい。のんびりゆったりと難しいことを考えているのが好きらしい。

 

一方で、相撞きとなると「速撞き格好いい」「遅撞き格好悪い」「相手がいる以上はテンポ良く撞かなくてはならない」という意識が前面に出てくる。これが非常に厄介です。

 

私は他人を意識しすぎる。対戦相手やギャラリー、配信する時なんかは画面の向こうの人。そういった人達をあまりにも意識しすぎる。結果、本来の自分が好む球撞きができない。

 

1人で撞いている時の「こういう風に撞きたい」と、相手がいる時の「こういう風に撞きたい」が違いすぎる。そして、1人撞きの時に求めていることこそが本来の私の嗜好。

 

というわけで「1人撞きの方が楽しい」と思うとともに、「とはいえ相撞きだって好きだし、しなきゃいけないこともあるのだから、上手くバランスを取っていかないとなー」と思いました、という話でした。



以前は「1人撞きの方が楽しい」と言うと異端扱いされがちだったんですが、Xが流行り始めて以降は私の同類が少なからずいることが分かって安心しています。