1973文字
1本目
「自分は◯◯が長所なんですぅー(なぜなら、子供の頃によく褒めてもらってたから!!)」などと宣う四十路を見ていて苦笑いしたことがキッカケになっております(^_^;)
子供の頃に「えらいねー!」「すごいねー!」「そんなこともできちゃうんだ!!」と周りの大人から褒めてもらったことを、40を過ぎてなお自分の長所だと思い込んでいる人。やばくないですか。
この例は程度が酷すぎますが、類似例は球界隈でも多数見かけます。たとえば「初心者の頃に褒められたことを、今なお長所だと思い込んでしまっている初中級者」ってたくさん見かけますからね。
「昔褒められた」って、全くあてにならないと思うんですよ。
当時褒めた人がなぜ褒めたかって
- 生涯変わらないであろう、稀有な長所だと思ったから称賛した
- 本音から褒めたが、ただし「今の歴や腕前のわりには」という前提ありき
- ただの社交辞令
- 何も考えていない、おざなり発言 例:「あー、すごいすごい!(今日何食べようかなー)」
こういったパターンがあって、1であることは稀な気がします。2が一番多いでしょうか。3や4も少なくない。
2のパターンは本当に多くて、C級の頃に褒められたからって、B級になってから同じことを褒めてもらえるとは限りませんよね。A級になった頃にはむしろ欠点になっているかもしれない。
「昔褒められたが、最近は褒めてもらえない」のであれば、それはもはや長所では無いのではないでしょうか。
私にも「昔褒めてもらった記憶があり、漠然と長所だと思い込んでいたこと」ってのがいくつかあります。ビリヤードでもビリヤード外でも。
「人から褒めて貰えた」をザックリと2パターンに分けます。
- 自称の長所を、人からも褒めてもらえた。
- 長所であるという自覚はなかったが、人から褒めてもらえた。
この2つです。私の場合は、前者は「興味があり、努力をしている分野」であることが多く、後者は「これといった関心はないが、センスがあったらしい分野」であることがほとんどです。
前者の場合は興味関心があるだけに、自己評価もしっかりしている。なので、歴を経た先で技術が伸びなかった時には、「昔は褒めてもらえたが、今は駄目だな」などの自覚を持ちやすい。
一方で後者は「なんか知らんけど褒めてもらえた。自分にはセンスがあったらしい」という状態です。関心がないだけに、自己評価がフワっとしている。おかげで、歴を経て「センスに驕って練習を怠った」という状態に陥っても自覚を持てず「昔褒めてもらったことがある。ということは自分は上手いのだ」と無意識に思い込んでしまいがち。自分を見つめ直す機会が無いので、いつまで経っても過去に他人から言われたことが基準になってしまいがち。
私自身、最近(主にビリヤード外でですが)「昔褒められたというだけで長所だと思い込んでいたけど、長所でもなんでもないな」という反省をいくつかしましたし、他人事としても「昔褒められたから今も長所なのである」という勘違いをしている人を日々見かけます。
「昔褒められたことがある」はアテにならない。
今一度、自身の評価を見直してみたらいかがでしょうか。
2本目
ここ数年、土手撞きをする際のミスキューが多いです。チョンマゲをしてしまったことも。
たぶん、多くの方にとっては「あるある」「別に珍しくもない」と思う話なんでしょうけども、私にとっては異常事態なのです。というのも、以前はほぼ全くなかったことだから。
元々は土手撞きでのミスキューなんて数ヶ月に1回するかどうかというくらい。チョンマゲに至っては、初心者の頃から一度もした記憶がありませんでした。
周りの人達はミスキューもするしチョンマゲもする。自分と他人を比べて「自分はどうやら土手撞きが得意らしい」と思っていました。ただ、「最初から出来た」という類の技術なので、なぜ自分が得意なのかをまともに考えたことがありませんでした。
ここ数年は、球を撞きに行けば1回は土手撞きミスキューするし、年1程度とはいえ、かつては一度もしたことがなかったチョンマゲも出る。
「ミスの頻度が上がる」というのであれば「練習不足」という結論を出すこともできますが、0が1になるというのは話が別です。ストロークが何か根本的に変わってしまったようだと感じます。
というわけで近頃は「なぜ以前は土手撞きミスキューをほとんどしなかったのか」「なぜ最近は増えてしまったのか」を考えておりまして、なんとなーーく自分なりの結論は出ていて今そこんとこの修正中です。主にグリップワークですな。
私にとってのミスキューといえばブレイクでのミスキュー。
この土手撞きミスキューを減らすための練習が、ブレイクのミスキュー低減にも応用できないかなぁと淡い期待を持っているのですが、ブレイクの方は技術というより主にメンタル的なものだからなぁ、、、、、