1本目
低頻度短時間しか撞かないことを前提として「少ない量でいかに上手くなるか」を考えている人たちを度々見かけます。
きっけー氏もその1人ですが、きっけー氏の場合はやる気がないだけです。ビリヤード愛が極端に軽い。「練習するのは面倒くさい。したくない。けど上手くはなりたいから、いかに効率よく上手くなるかを考える」というタイプ。それを本人も自覚している。
一方で、自覚していない人も結構多く見かけます。「自分は低頻度短時間でしか撞けない。だから質にこだわった練習をするのだ!!」と主張するのだけれど、他者からすれば「もっと撞く頻度上げられますよね?」としか思えない。そんな人がよくいる。「量を撞けない」が、ただの言い訳にしかなっていない。それを自覚していない人たち。
そういう人達には「質を上げることばかりを考えるより、量をこなせるように自己研鑽に励んだ方がいい」と言いたくなることが多いです。
しょっちゅう言ってますけど、「質か量か」ではなく「質も量も」ですから。
ビリヤードとは全く関係のない界隈でのことですが、「『努力できるのもセンス』と言われる。では、努力できない人を努力させるようにはできないのか?」という話が出ていました。
これは私も度々考えさせられます。
私からすれば、どう考えても努力が足りないとしか思えない。頑張っていないとしか思えない。しかし当人は「自分はこんなにも頑張っている」「これ以上はどうしようもない」と本気で思っている。
彼らは「努力を押し付けるな」「根性論やめろ」「努力できる人はセンスがあるから努力できてるだけだ」「自分はセンスがないから努力できないのだ。自分は悪くない」と思っているらしい。
そんな人を変えることってできないんでしょうかね?
2本目
お店のルール・マナーに違反している人を見かけた時(はたまた、社会のルールに反している人を見かけた時)「自分に実害はないが、店が迷惑を被るだろうから店員さんに報告しよう」と思うことはあるはずです。これは純粋に「お店のために」ですよね。
一方で「自分が実害を受けた」とか「見ていて自分が不快に思う」とか、そういうこともあるわけですよね。そういう時に店員に報告するってのは「自分で注意するのは何かと面倒だから、店員にやってもらいたい」が本音じゃないですか?
私でしたら「自分には注意をする勇気がないし、面倒くさい。何かあっても怖いし。だから申し訳ないけど店員さんになんとかしてほしいな」が本音です。面倒くさく感じるのは店員さんだって一緒だ。
「店員の仕事でしょ?」「なんで俺が注意しなきゃいけないの??」とかなんとか言ってるような人にしばしば出会います。
「迷惑な人に注意をするのは、学校だったら先生の仕事、店だったら店員の仕事、会社だったら上司の仕事、街中だったら警備員や警察の仕事。俺は一切関係ないですよ」みたいな人、いますよね。こういう人って、自分の子供を叱ることもせず「なんで俺が?母親の仕事でしょ?」「学校でちゃんと教育してくれ」とか言ってたりするんですかね、、、
「面倒くさいから、申し訳ないが店員さんになんとかしてほしい」なら分かります。私もそう。
「店のためなんだから、注意をするのは店員の仕事」などと口にしてしまったけれど、よくよく考えたら「確かに自分が注意したっていいんだよな。。。」と反省できる人もまだいい。
「なんで俺が??」「俺に注意する義務なんてないでしょ??」と本気の本気で思っている人は、私は仲良くなれそうにないです。