鈴木さんちの球日記

撞球愚痴日記。2006年から書き続けているので、昔と今とでは持論が変わっていることが多いです。1プレイヤーの成長記として、生暖かい目で見守ってください。

フィニッシュの形で

 

昔のブログ記事を見返せばどっかで書いていると思うんですけど、「コジり切った後のフィニッシュの形で手球に構えてしまえば、それ以上コジらない」という理論があります。

 

ビリヤードを始めたばかりの人ですとコジる方向が一定せず、毎回毎回違った方にコジってしまったりするんでしょうけども、ある程度の歴と経験を積んだプレイヤーのコジりは大体いつも一定だと思います。同じ方にコジる。

 

毎回一定にコジるということは、フォームやストローク的にキューが自然と向かうのはそっちということになる。意図せぬ方にキューが出てしまうから「コジり」という扱いになるのであって、コジってしまう方向を正面に持ってくればそれはコジりではなくなる。

 

この理論、何度かブログネタにしているにも関わらず、書いている自分が失念しがち(^o^;)

 

ここ何年かで、「フィニッシュの形で構える」を一番ちゃんと採用しているのが左サイドからのレールブレイクをする時です。左サイドから撞く時は、空中で一度ブンッと思い切りキューを振って、そのフィニッシュでキュー先が向いている方が正面に来るように構えます。それがルーティンになっている。

 

なぜ左サイドブレイクの時にちゃんと採用しているかって、「撞き方をイジってないから」ですね。。。

 

ここ何年も、レールブレイクは全然練習していない。手を入れていない。だからルーティンとして定着していたことはそのまんま残っている。

 

他方で、プレイは手を入れまくりです。なので「フィニッシュの形で構える」を採用していることもしていないこともある。あっち行ったりこっち行ったり。

 

(右サイドからのレールブレイクに関しては割愛)

 

そして、本日主にネタにしたいのは平撞きブレイクです。平撞きブレイクに関しては「フィニッシュの形で構える」をそもそもまともに試していない。

 

平撞きブレイク練習を始めたばかりの頃は「失念していた」が理由。

 

そして、ある程度上達してからは「今まで違う撞き方をしてきたから、フィニッシュの形で構えようとすると違和感が出る」が理由。

 

つい何ヶ月か前にもフィニッシュの形で構えての平撞きブレイクをしてみようと思ったんですが、「不慣れだから、どこに向かって構えているのか分からない。ちゃんとまっすぐ撞けるのか不安。もし場外したら、、、」と疑心暗鬼になってしまってまともに撞けませんでした。

 

つい最近、たまたま環境が整っていた(ミスキューや場外をしてもあまり問題がない環境で撞いていた)時にたまたま「フィニッシュの形で構える」という発想を思い出したので、試してみました。

 

やはり不慣れなだけに違和感があります。まっすぐ構えているはずなんだけどまっすぐ構えているように見えないし、そうなれば当然まっすぐ撞ける気も起きない。結果が見えなくて怖い。

 

けど、どんな結果が出ても気にならないような環境だったので、そのまんま撞いてみた。最初の数回は不発でしたが、4回5回と撞いてみたら段々合ってきて「いいじゃん!」ってなりました。



この話から言いたいことは毎度おなじみなんですけども、「慣れている=絶対的に良い」では無いということです。

 

慣れていることというのは安心感がある。良くも悪くも結果が見えているから。最高も最低も分かっている。

 

慣れているだけに安定もする。しかしノビシロがあるかどうかはまた別の話。低め安定かもしれない。

 

不慣れなことというのは、もしかしたら今までの最高を越える結果が出るかもしれないという期待感とともに、もしかしたら予想もしない最低な結果になるかもしれないという不安感もある。

 

「『こわい』を分解すると、ほとんどが『知らない』と『分からない』で出来ている」というツイートがバズっていましたけど、「不慣れなこと」もそれですね。結果を知らない、先行きが見通せない、だから怖い。

 

怖いからって不慣れなことを避け、慣れたことばかりを選択していると、やはりノビシロは減ってしまいますよね。

 

「悪癖」なんてのはその最たるものでありまして、明らかに悪いことだというのに「慣れているから安心」と思ってしまう。「自分にはこういう悪癖があるせいで、いい結果が出せない」と悩むのに、それと同時に「新しいことに挑戦する恐怖よりは、現状維持の方がマシ」とも思ってしまう。

 

間違ったことに慣れきってしまってからだと、矯正がとても難しくなる。

 

「上手くなってから直そう」では手遅れになる。初心者初級者のうちに正しい知識を身につけることがいかに重要か、日々痛感させられております。