鈴木さんちの球日記

撞球愚痴日記。2006年から書き続けているので、昔と今とでは持論が変わっていることが多いです。1プレイヤーの成長記として、生暖かい目で見守ってください。

共感

1本目

 

先日、運転免許証の更新に行ってまいりました。


証明写真を撮る時に、写真を撮ってくれたオバちゃんに顔の傾きを指摘されながら「そうそう。いっつも自分、そっちに傾いてんだよなぁ」とか思ってました。


自分では傾いているつもりはないのですが、若干右に頭が傾いているのがデフォルトになっている私。ビリヤードのフォームを作る際に、しばしば困ることがあります。


フォームでの顔の向きって「厚みに対して真っすぐ」が基本とされますよね。


私は構えてみて「今日は良い頭の向きだ」「フォームがシックリ来てる」と感じる時、若干顔が傾いています。「真っすぐ」はベストな状態ではない。「若干傾いている」がベスト。


なので、いざ違和感を覚えた時に、その「若干」がどれくらいなのか分からなくなるわけです。「真っすぐ」は一通りしかないので、鏡や動画撮影をしてチェックをすればある程度修正できる。

 

けど、「若干傾いている」は「どの程度?」って話になりますからねぇ。

 


ベストな状態で球を撞いている時の「若干の顔の傾き」と、証明写真を撮る時に指摘される「若干の顔の傾き」が同じ方向なんですね。

 


・球を撞きやすい顔の傾きが癖になってしまった

・ビリヤードを始める前からの傾き癖が、そのまま球撞きにも反映されている

 


以上2つのどっちなんだろか?ってたまに気になってます(笑) 顔の傾きはビリヤードを始めた後の話なのか前からなのか。球を始める前のことなんて覚えてないからなぁ。

 

それとですね。「今日は顔の傾きがなんかおかしいぞ」っていう日が多々あるわけですが、そういう時って十中八九傾き過ぎている方向が同じなんですよ。「今日は左」「今日は右だー!」みたいにバラバラになることは無い。ほぼほぼいつも同じ方に傾きすぎている。


これは寝相の癖でもあるのかなぁ?と思ってるんですが、真実はいかに。

 

(先日、ブレイク時の写真を載せつつ顔の傾きについての話をしましたが、今回のネタはその時のネタよりも先に書いておりますゆえ、「プレイとブレイクで顔の傾きが逆!?」と気づくよりも前に書いてます。証明写真を撮る際に指摘された顔の傾きは、プレイの時の顔の傾きと一緒)

 


2本目


免許更新のための講習にてお馴染みのビデオを見てきました。事故の悲惨さを伝えるやつです。


今回見たビデオでは、被害者の遺族たちが啓蒙活動をする様子が映っていたのですが、それを見ながら私は「共感してもらうことの難しさ」というのを考えていました。


事故が悲惨なんてのは誰だって頭では分かるじゃないですか。でもやはり、実際に体験しないことには本当の意味では共感出来ないと思うんです。そして、本当の意味で共感出来た時にはもう取り返しのつかないことになっているっていうね。。。


戦争やら災害やらも「悲惨だ」「備えが必要だ」なんてのは誰だって分かってることですけど、でもやっぱり経験者と非経験者では危機感が全く違いますでしょう。

 

悲惨な事には共感をして繰り返さないようにしなくてはいけませんが、しかし悲惨なことが歴史上多すぎて、その全てに心からの共感をしている余裕は我々には無い。努力はすべきだけれども、全ては無理。どうしても優先順位をつけてしまいます。

 

急にショボイ話になりますけど、ビリヤードにまつわる持論やら愚痴やらも、同じような経験をした人には共感してもらえるけれど、してない人にはまずもって伝わらん。そりゃぁ、相手は自分と同じ経験をしていないんだから、当たり前と言えます。


人間、やはり当事者になってみないと、その時の気持ちなんて分からないもんですよね。


私はそう思っているがゆえに、経験してもいないのに「あなたの気持ちは分かる」だとかなんだとか共感の意を示してくる人は、うさん臭くて胡散臭くて(;'∀')


同じ経験をしたから共感してくれる人は仲間だし、経験してないから「良く分からん」と言ってくる人も「そりゃそうだよね」っていう話なので納得です。反論されるのは気に食わないですが「良く分からない」と言われる分には全く構わんのです。


下手に「分かる」と言われる方が嫌だなぁ。


たまに「本当にこの人は相手の気持ちが想像できる人だな」っていう、やたらと共感力の高い人はいて、そういう人には素直に「共感してくれてありがとう」って思います。

 

 

3本目


共感という話繋がりで。


同じ体験をしたから同じ気持ちになったってのは分かりやすいですし、同じ体験をしていないから共感出来ないってのも分かりやすい話です。


他人の意見を聞いた時、「うーん。ピンと来ないな」と思うことから「それは違うだろう!!」と反感を覚えることまであるわけですが、冷静になって考えてみると「私も同じ体験をしたら、あの人と同じことを思うのかもしれない」と思いを改めることが多々あります。


同じ体験をしていなくても、相手のことを想像し、相手のことを思いやってあげるのが共感力だって言われますでしょう。


同じ体験をしたから共感できるってのは当たり前で、同じ体験をしてなくても共感してあげられるのが共感力。


で、この「同じ体験をしていなくても」なんですけども、どこまで想像すべきですか??


毎度お馴染みの極端な例ですけど、殺人犯の気持ちなんて、大抵は共感出来ないわけじゃないですか。


でも映画なんかだと、特定の犯罪者にクローズアップして、その人の生い立ちからさらっていって作品にしたようなものがあり、それを見た側は最後には共感しちゃって「可哀そう」「同じ境遇だったら、自分もこうなっていたかもしれない」って思ったりすることがあるじゃないですか。


猟奇殺人犯ですら、もしかしたら産まれたその瞬間からのその人の人生全てを追体験したら、共感出来ちゃうかもしれないわけですよ。


逆に、もしそこまで相手の気持ちに立ってみても共感出来なかったとしたら、それはもう「犯罪者としてDNAに刻み込まれていた」「そう運命づけられていた」ってことになっちゃって、本人にはどうしようもなかったという話になっちゃいますし。


普段私がする共感なんてのは、一番多いのは「同じ経験をしたから共感する」程度の話だし、せいぜいが「相手のここ最近の出来事を鑑みて、想像してみて共感をする」っていうくらい。


相手の幼少期のことを振り返って、「自分も同じくらいの年齢だった時に同じ経験をしたらどういう思いをしただろうか」「どういう性格になっただろうか」なんてことまで考えませんでしょ??


相手に共感するって、一体どこまで掘り下げればいいんでしょうかね。

 


4本目


パッと見で気づきやすい怪我や病気と、パッと見では気づけない怪我や病気ってありますよね。


後者にまつわるトラブル話をしばしば見聞きします。


公共の場となると、一々「自分にはこういう怪我や病気があります」と言って回るわけにもいかないので、一目で気づけるマークか何かが必要だって話になりますよね。


頻繁に顔を合わせるような間柄となったら「自分にはこういう怪我や病気があります」と自己申告していただければ解決しそうなのですが、そう簡単に事が運ばないケースがある。


怪我や病気ってのは「言い訳」ではないですよね。


なのに「言い訳はしたくない」「さらけ出すのが恥ずかしい」「わざわざ言うような事ではない」と考えて言わなかった結果、かえってトラブルを招くってことが私の周りでは結構多いです。


誰も得しないんですよ。本人も健常な人と同じ扱いを受けてキツイ思いをすることになるだろうし。周りも「あいつ仕事出来ないな」と思うし、いざ怪我や病気があると知った時には「そんな事情があるとは知らずキツく当たって申し訳ない」と後悔するし。


最初っから知っていればねぇ。「言わなくても分かれ」っていうのにも無理があるし、、、


でもそれは、私には日常生活に悪影響を出すような怪我や病気が無いからそう言えるのであって、自分自身がその立場になったら口に出せなくなるのかなぁ。


その立場になってみないと分からない。。。


これもまた自分では体験していないことに共感するのは難しいという話でもあり、相手方に「共感するためのステータス開示をしてほしい」と願う話でもあります。

 

P.S.

 

コンスタントに練習しないと勘が鈍ってしまい、鈍らせたくないから球を撞くっていう人も一定数いるんじゃないか?という思いから、興味本位でこんなアンケートを取っています。お手すきの時に投票よろしくお願いします。

 

26日までです。