鈴木さんちの球日記

撞球愚痴日記。2006年から書き続けているので、昔と今とでは持論が変わっていることが多いです。1プレイヤーの成長記として、生暖かい目で見守ってください。

自己満足の形

2本立て


1本目


度々思うことがあるから、度々ネタにしているお話。


元々、暇な時間なんてものがほとんどなかった私。


「仕事や家事などをしなくて良い時間」を暇な時間とするのであれば暇な時間はたくさんあるのですが、「何も予定が入っていない時間」「何もすることがない時間」を暇な時間とするならば、暇な時間はほぼほぼ無い人生。ようは趣味に費やす時間を「暇な時間」に含めるかどうかです。


もしも趣味に費やす時間も「暇ではない」と扱って良いのであれば、私に暇などござらん!!


あまりに趣味が多すぎて、時間も金も体力も奪われる日々です。


目下の問題が体力でありまして、最近の口癖が「MPはMAXだけどHPは限りなく0に近い」です。


趣味・遊びに時間を費やせば、精神的には癒されます。おかげさまで、精神面は日々非常に元気です。


が、いくら楽しい時間と言えども体力は使う。そして、休息の時間というものがほぼ全くないものですから、体力を回復する暇がないのであります。


元から時間が無いってのに、そこへ来てさらにここ数か月は公式戦やら各種ビリヤードイベントやらを予定に入れ、それに向けての準備のために日頃から頻繁に球を撞き。


もう無理です。体力的に無理。


今のところ予定されている試合・イベントを全部消化したら、真面目に身の振り方を再考しなきゃならんと思っている今日この頃です。



そんでですね。今回言いたいのはここからなんですが、私だいぶ遊びまくってます。


球もそこそこ撞いているし、他の趣味にも興じているし、飲み歩き食べ歩きしているし(これも「他の趣味」ですけど)


「羨ましい」と言われたり、遊びすぎと馬鹿にされたり、嫉妬されたりと色々な感情をブツけられるわけですが、当の本人、そんなに満足していないっていう。楽しんではいますが、周りの人が思っているほどには充足感を覚えていないっていう。


そのことがなおさら「身の振り方を再考せねばならぬ」という思いにつながっています。



趣味の1つであるビリヤードを例にしてみます。ビリヤードブログですからねw


球を始めて練習して上手くなっていって、上達が実感できると嬉しくて。


「よし!B級を目指すぞ!」となって経験を積んで、いざB級になれたら嬉しいじゃないですか。


けど、何週間か何か月かしたらその嬉しさも薄れてきて、それどころか上のクラスに上がったことの大変さの方が上回っちゃったりして、さらに鍛錬を積もうと考えますよね。


で、練習して練習して練習してるうちに「Aクラスになりたい!」と思うようになって、また腕を磨いて。


そしてAになれたら嬉しい。


けどまた繰り返し。嬉しさは一瞬。Aであることが当たり前になってくると、ツラさの方が上回って「もっと上手くならなきゃ」となって、、、、、



エンドレスなわけですよ。きっとSAやプロになったらなおさらでしょう。ってか、上のクラスの人ほどその立場にいることのツラさは大きいかもしれない。


そして、もし「昔の方が上手かった」なんて思うようになったら不幸のどん底なわけです。



また、球撞き頻度なんかもそうです。


月に何回かしか撞けなかった人が週に1回撞けるようになると嬉しい。楽しい。


けど、そんな日々を繰り返しているうちに「もっと撞きたいなぁ」「周りの人たちはもっと撞いてる」「羨ましい」「恨めしい」と思い始め。


なんとかやりくりして、週に2回は撞けるようになったら嬉しい。けどその嬉しさも一瞬。


もっと。もっと撞きたい!!


もし、ほぼ毎日撞けるようになっても「もっと長時間撞きたい!」


そして何か変化があって、また元の週1プレイヤーに戻ろうものなら絶望するわけですよね。不幸のどん底。元に戻っただけなのに。


結局、どこまで行ってもどうせ満足なんかしないんだから、どっかで妥協するのが一番なわけですよ。それが一番の幸せの形。欲が強すぎるから不幸になる。満たせるはずもない欲を持つからいけないのであります。


週1プレイヤーからしたら週に何回も撞いている人が羨ましいかもしれませんが、高頻度で撞いている人たちが本当に幸せかとなったらそうじゃないかもしれない。


逆に、月に何回かしかやっていない人たちは、幸せを感じているかもしれない。



幸せはいつも自分の心が決める みつを


(そういや、みつを先生の詩を元にブログを書くとか言ってたのに、結局何回かしかやってませんねww)



このビリヤードの腕前や球撞き頻度の話は、かなり多くの方が共感出来ると思います。どこまで行っても満足出来ないし、一歩後退しようものなら非常なストレスを感じてしまうという。


全く同様のことを、私は他の趣味にも感じてしまっているわけです。


たとえば美味しいものを食べに行くとして。


一般の皆様がたまに美味しい物を食べに行ったら幸せですよね。


けど、私の場合は趣味と化してしまっているので、ビリヤードと同じです。「もっと美味しい店があるんじゃないだろうか」「あの店にも行ってみたい」「この店にも行ってみたい」と欲求に限りがなく、欲求を満たすだけの時間と資金がなくストレス。。。。


美術館・博物館巡りも趣味なのですが、色んな興味深い展覧会があって「あれにも行きたい」「これにも行きたい」「けど、時間が足りない!」とストレス。


音楽なんぞは自分でも演るし、聴くのも当然好きで「あれを練習しなきゃ」「あの楽器が欲しい」「あのコンサートに行きたい」「この人来日するなら絶対に行きたい!」「時間が無い!」「金が足りない!!」


酒も趣味ですので。。。(以下略)


これをまだまだ書ききれないほどたくさんある趣味に対して全く同じことをやっておりますのです。


皆様も、ビリヤードも欲求のすべてを満たすことは出来ずストレスはあるけれど、とはいえトータルではプラスでありましょう?だから続けているんですよね。


私にとってのビリヤードも同じだし、他の趣味も同じです。トータルではプラス。けどストレスも。。。


ビリヤード場に来てバカ騒ぎをしている一般のお客さんを見ると楽しそうでしょう。あの楽しさは我々は味わえませんよ。あれはその時1回限りの遊びだから味わえるもの。私たちプレイヤーのようにビリヤードをすることが常態化している人間には味わえません。


一般の人たちからすると、毎日のようにビリヤードをしている人たちは、毎日のように馬鹿騒ぎしている時の楽しさを感じているものだと勘違いするから、ともすれば「遊びすぎ」などと言われたりもする。


遊びすぎなのは事実だけれど、実はそこまでの楽しさを感じているわけでもないっていう。感覚がちょっと麻痺しているというか、頻繁に撞くことに慣れてしまっていて感情が薄れてきてしまっている。また、義務感にも似たようなものを覚えている人も少なくないはず。


私の他の趣味にしてもそれと全く同じでしてね。周りの人からしたらメッチャ遊んでて、メッチャ楽しんでいるように思われるわけですが、当の本人はそこまででもない。けどやめられないっていう。


それがどうも馬鹿馬鹿しく感じられて来て、色々と断捨離せねばならんなぁと考えているのですが、なんとかなるのだろうか。



2本目


1本目と似たような話です。


世の中では勝ち組負け組なんていう話が度々されておりますが、何をもって勝ち負けを決めるんでしょうかね。


高い収入があって、社会的地位もあって、人望もあって、ルックスも良くて、五体満足で、良い家庭を持って、仕事も趣味も順調で、本人も自分の人生に大満足!、、、なんて人がいたらそりゃ勝ち組で間違いないですけども。


そんな完璧人間はまず存在しなくて、勝ち組だ負け組だなんて話がされる時は、もっと低レベルの話ですよね。


収入なんてのは判断材料として挙げられがちなことですが、「収入は高いが、それだけ」って人も結構いる。


収入は高いが、周りの人はその人を評価していないし、本人も自分の人生に満足していない、みたいな。そういう人はたくさんいる。勝ち組とは呼べなさそうです。


一方で、収入が低い人たちが「収入の高さだけが勝ち組人生じゃない」「人生の満足度だ」「人間性だ!!」などと叫んでいる姿も良く見かけますが、そんな主張をしている時点でその人は自分の人生にコンプレックスを抱えている負け組じゃないですか。


収入が低くても、自分の人生に満足している人ってのはどこかにはいると思うんですよ。けど私は見たことが無い。口では満足しているようなことを言っている人はいるけど、本音ではどうなの?って人ばっかり。


自分の人生に満足していない周りからは勝ち組だと言われる人と、自分の人生に満足している周りからは負け組だと言われる人と。


結局のところ、勝ちか負けかなんてのは自分が幸せを感じられているかどうか、満足出来ているかどうか、どれだけ自己満足出来ているかどうかだと思うわけです。他人の物差しで測るもんじゃない。



しかし、もし自分では満足しているのに、周りからは「負け組だ」と言われたとしたら。そして、言われた本人は周りからの評価を気にする人だったとしたら。満足度が下がってしまいますよね。「周りからも評価されたい」と思って幸せ度数が下がる。


「周りの言うことなんて気にしないよ」とか口では言うけど、本当は気にしまくっている人ってのも少なくない。


そんな中、本当に周りのことなんて全く気にしていない人ってのがたまーーにいます。



ビリヤードの話をしてみます。


意味もなく格好いい出し方をしたり、ハードブレイクをしたり、セーフティーをせずにとことん入れに拘ってみたりなどすると「そんな自己満足の球を撞いてどうする」「もっと勝ちに拘れ」などと言われることがあります。


撞きたい球を撞くことが自己満足であるのは間違いないのですが、しかしながら、勝ちにこだわることだって自己満足であると気付いていないのでしょうか。


勝ちに拘りたいから拘っているだけでしょう?


そもそも、ビリヤードなんてそれで飯を食っている人じゃなければ、人生においてなんら必要な事じゃないわけですから、何をやったって自己満足でしかない。どんな趣向をもってビリヤードをしようとも、すべては自己満です。趣味である以上、正しい目的なんてものは存在しません。


自己満足にも色んな形があり、多数派の自己満足の形と少数派の自己満足の形、説得力のある自己満足の形と説得力に乏しい自己満足の形などなど、色々あると思うんです。


私が「こういう自己満足の形だと楽だろうな」と思うのが2つあります。


1つは分かりやすく「勝ちに拘る自己満足」です。


「なによりも勝つことを最優先した球を撞くことで、自己を満足させられる」という人はやはりビリヤードの勝負で勝てますよね。


「勝ちにこだわりたい」という自己満足を満たせるし、さらに多数派であり説得力もある自己満足の形であることもあって、他者からの評価を得られ承認欲求まで満たされる。



もう1つは本当の意味での究極の自己満足です。「自分が満足出来れば他はどうでもいい」っていうタイプの形。


たとえば私は、勝ちを最優先にはせず色々拘りたいことがあるのですが、しかしやはり勝ちにも拘りたいし他人の目も色々気になるしで、モヤモヤを抱えることが多いです。


また、なんにつけても勝利こそが最優先って人も、口では「勝ってなんぼ」とは言うけれど、なんだかんだ「もうちょっと楽しく球が撞きたい」とか「もっと格好いい球が撞きたい」と思うこともあれば、「つまらない球だ」などと人から指摘されて気にしてしまうこともあるんじゃないでしょうか。


しかし、世の中には稀に、本当に全く他人からの評価を意に介さない人ってのがいます。


負けようが下手くそな球を撞こうが周りから馬鹿にされようが、全く気にせず、自分さえ満足出来ればそれでいいって人が稀にいる。


良いですよね。常に精神衛生を保っていられる。


「そんな人は、高い評価を得ることが出来ない」なんて言われますけど、高い評価を得ようと思っていないんだから、その人にとってはどうでもいいことでありましょう。


「物凄く低いハードルで満足できる」「他人からの評価は全く気にしない」


この2つの属性を持ち合わせている人が、最も幸せであり勝ち組なんじゃ??って度々思うわけですよ。


たぶん、そういう人は周りから勝ち組だと言われることは無いと思います。負け組だと言われることもあると思う。


けど本人は自分の人生に満足しているし周りからの評価なんて気にしないわけだからねぇ。幸せなわけですよ。そういう人こそが勝ち組な気がする。


とはいえ、今さら自分の性格を変えることなんて出来ませんので、無理だなぁ。