鈴木さんちの球日記

撞球愚痴日記。2006年から書き続けているので、昔と今とでは持論が変わっていることが多いです。1プレイヤーの成長記として、生暖かい目で見守ってください。

流行語

 

1本目

 

昨年の流行語大賞は「村神様」でした。野球好き(かつスワローズファン)である私は納得していました。

 

しかし、反対の声も聞きました。「『ブラボー』だろう」と。

 

(ブラボーがノミネートもされていなかったのは、FIFAワールドカップの開催が年末であり、流行語大賞のノミネート時期から外れていたからだそうで)

 

そんな出来事からあれやこれやと考えていたんですけど、そこで思ったのは「私は野球ファンであるため、正常な判断が出来ない」ということでした。

 

私は野球ファンです。年間通して野球に注目しています。アンテナも張っています。

 

対するサッカーには思い入れがなく、全くアンテナを張っていません。実のところ『ブラボー」の現場も見ていない。

 

「野球もサッカーも同等に好き」とか「野球もサッカーもどっちにも興味がない」であれば正当な比較が出来るのでしょうが、どちらか一方にだけ思い入れがあるとなると一般論を話すことができないわけであります。



そこから連想したのが、「ビリヤード業界は、もっと外の声を聞いたほうが良い」ということでした(ビリヤード業界に限った話ではないのですが)

 

たとえば、ビリヤードのメジャー化についての話をする時。メジャー化を図るのであれば、一般人の声を聞かなくてはいけない。私達はもはや業界にドップリですので、一般人の気持ちなんてものは推測するのが非常に難しい。「一般人の気持ちは分からない」と言いきってしまっても差し支えなさそう。

 

そんな面々がいくら知恵を出し合ったってまともな策が出るわけがないので、一般人の意見をしっかり募るべきでありましょう。

 

「ビリヤードプレイヤーと一般人」という比較だけではなく、「試合の運営者と参加者」とか「店員と客」なんてのもそう。

 

相手方の意見を分かっているような気持ちになってますけど、全くといっていいほど分かっていないと思うんですよ。それは事実。そしてその事実は恥ずかしいことでもなんでもなく当たり前のことなので、相手に質問すりゃいいだけ。勝手な推測で終わらせないことが大事。



日本人って「以心伝心」への憧れが強すぎるような気がします。「言葉にしなくても伝わる関係」なんてのに憧れているし、「言わなくたって分かるだろ」と考える人が多いし、「言われなくても察せるのが凄い。察せないのは情けない」みたいな考え方もあるし。

 

コミュ障が遺伝子レベルで組み込まれてしまっているような気がする。

 

言うべきことはちゃんと言う。聞くべきことはちゃんと尋ねる。内輪だけで完結させようとしない。

 

これを心がけるだけでだいぶ変わると思うんですけどね(私自身の今後の課題でもあります)



2本目

 

過去にネット上で見かけた一言で今も印象に残っているものが色々あるんですけど、一つに「どこかの球屋の片隅でお前がスーパーショットを決めていたって、どうでもいい」というものがあります(細かい言い回しはよく覚えていないので、大体です)

 

どういうシチュエーションで発せられた言葉なのか次第で印象がガラっと変わる一言ですが、その時はマナーの悪いプレイヤーに対しての一言でした。

 

周りの迷惑を顧みず、自分がいい球を撞くことに全力集中しているようなマナーの悪いプレイヤーに対して「どこかの球屋の片隅でお前がスーパーショットを決めていたって、どうでもいい」という一言。痛快じゃないですか?(笑)

 

自分の球撞きの結果が自分1人だけのものじゃなくなるのって、プロ選手だとか、アマチュアで言えば店や県を代表するような選手だけじゃないですか。そういうプレイヤーは、多少のマナーの悪さがあっても「良い球を撞く」ことに価値が生まれると思います。

 

けど、一般アマは、いい球を撞いたって自分が嬉しいだけ。自分の精神衛生のために他人に迷惑をかけるというのは、とてもじゃないけれど看過できませんよね。

 

「マナーだなんて面倒くさいことを一々考えていたくない」と言う人に対しては「だったら家にテーブルを置き、そこで1人で撞いていてください。店に来るな」という某店オーナーさんの言葉をお送りしますw

 

外に出て人と関わる以上は、マナーは必須です。マナーを守りたくないなら、1人で生きるべし。